全海運本部より

~東京の海と船の史跡~

200704a1別掲『沿革/全海運の歩み』のように、全国海運組合連合会の前身である(第3次)全国機帆船組合総連合会(略称・全機連)が第2次世界大戦後に設立されたのは昭和26年(1951)7月3日でした。
設立総会は当時の山崎猛運輸大臣らを来賓に迎え、東京・丸の内の『精養軒』で開かれ、会長に鶴丸実次・鶴丸汽船専務(九州)が選任されました。

その際の本部事務局は、全機連の母体でありその設立に当って発展的に解散した日本機帆船業会が入居していた東京都中央区小田原町1-5の木造の建物で、当時を知る関係者によると、「階段の昇り降りの際にギシギシと音が出た」そうです。
中央区役所によれば、現在この付近は、中央区築地7-11-1から14の辺りとみられ、現在はマンションや小規模ビルになっており、当時を物語る姿はありません。

全機連がここに本部事務所を設けた理由は、徒歩10分ほどの現在では国立築地癌センターとなっている場所に所轄海運局があり、この付近には当時、多く内航海運業者も事務所を構えていたので、便がよかったからだとのことです。地図でみますと、築地本願寺の裏手で、聖路加病院のすぐ近くという位置関係にあります。
また、この近辺は東京湾に注ぐ隅田川の河口であり、その昔は徳川幕府が江戸への物資搬入のための拠点としていたため、今でも数々海と船に関する史跡が残されています。

 

◇江戸湊発祥跡
場所 : 東京都中央区新川2丁目/亀島川が隅田川に注ぐ河口付近の隅田川テラス

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徳川幕府が江戸に港を開いたのがこの地です。明治22年になるとここを発着地として房総、相模、伊豆方面とを結ぶ貨客船航路が開設されました。新川リバー通りから入った第2新日鐵ビル東館の脇の隅田川テラスに建てられた碑によれば、「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。

昭和11年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、賑わった」とあります。ここは往時、将監(しょうげん)河岸(別掲)と呼ばれた隅田川に注ぐ亀島川の河口に位置します。

 

 

◇船員教育発祥の地の碑
場所 : 東京都中央区新川2丁目/永代橋西詰交差点

200704a3隅田川に架かる永代橋のたもとに、東京商船大学(東京海洋大学)100周年記念として昭和50年(1975)に建てられたものです。

中央区教育委員会設置の碑文によれば、「内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社社長岩崎弥太郎に命じて、明治8年11月、この地に商船学校を開設させた。
当初の教育はそのころ隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に威妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢(こうし)となった。

爾来100年、ここに端を発した商戦教育の成果は、わが国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷を経た今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承されている」と記されています。

 

◇御船手組(向井将監=むかいしょうげん)屋敷跡
場所 : 東京都中央区新川の亀島川河畔一帯

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江戸初期に隅田川に至る亀島川の下流の左岸(新川側)に、幕府の御船手組屋敷が設置され、戦時には幕府の水軍とし、平時には天地丸など幕府御用船を管理していました。
慶長年間、江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してから、水運の中心地として江戸の経済を支えていました。

向井将監忠勝(1582~1641)は、大坂の陣で水軍を率いて大坂湾を押さえた功績により御船手頭に任ぜられ、向井家は代々将監を名乗り御船手頭を世襲したことから、亀島橋下流から隅田川に至る亀島川の左岸(新川側)を将監河岸と呼ぶようになりました。

また、1889年(明治22年)に東京湾汽船会社が設立され、御船手組屋敷跡に霊岸島汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島などに向けて海上航路を運営し、昭和11年(1936)まで伊豆七島など諸国への航路の出発点としてにぎわいました。現在、付近の隅田川テラスに『江戸湊発祥跡』が設置されています。

 

◇河村瑞賢(かわむらずいけん)屋敷跡
場所 : 東京都中央区新川一帯(碑は隅田川テラス脇の公園)
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隅田川に注ぐ運河の新川は、江戸前期の御用商人、海運・治水の功労者の河村瑞賢(1618~1699)が万治3年(1660)に掘削したと言われています。周囲には蔵が建ち並び、江戸時代から昭和期まで重要な運河として、材木や酒樽などを主に運びました。

瑞賢は、明暦3年(1657)の江戸大火の際、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築き、その財力を基に海運や治水など多くの事業を拡大したと言われますが、その業績の中でも特に重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことが挙げられています。

晩年にはその功績により旗本に列せられました。
瑞賢の広壮な屋敷は、現在の新川1丁目南角から霊岸島半丁一円を占め、河岸には土蔵4棟があったと言われています。

 

◇徳船(とくふね)稲荷神社
場所 : 東京都中央区新川2丁目の河口付近にある南高橋の際

200704a6江戸時代、新川には広大な越前松平家の下屋敷ががあり、その中に小さな稲荷が祀られていたと言われます。

御神体は徳川家の遊船の舳(へさき)を切って彫られたものと伝えられ、明暦3年の江戸大火でも御神体は類焼の寸前に難を免れました。

平成3年(1991)に南高橋東詰北側に地元の新川2丁目に遷座されました。

 

 

 

 

◇波除(なみよけ)稲荷神社
場所 : 東京都中央区築地6-20-37 築地市場
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現在この神社がある築地一帯は一面の海であったことは、江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図にも描かれています。
この付近は、江戸城西丸の増築に掘られたお堀の揚げ土で埋め始められ、埋立を割り当てられた全国の諸侯70家の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。

しかし、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立工事は困難を極めました。
萬治2年(1659)のある夜、海面を光りを放って漂うものがあり、それを稲荷大神の御神体として祀ったところ、波風が治まり、埋立が進んだといわれています。

以来、稲荷大神に 『波除』 の尊称を奉り、「災難を除き、波を乗り切る波除稲荷様」として崇敬されています。

 

◇鐵砲洲(てっぽうず)稲荷神社
場所 : 東京都中央区湊1-6-7
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鉄砲洲の地は、徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い河口の島でした。寛永期にここで大砲の射撃演習をしていたので、この名が生まれたとも伝えられています。

元々は平安時代初期の承和8年(841)に年来打ち続く凶作にこの土地の住民たちが自らの産土の国魂神(うぶすなのくにたまがみ)を祀り祈願したものですが、当時は東京湾の最も奥に位置していたために、港として諸船舶の出入り繁く、船乗り人の崇敬が厚くなりました。

その後、埋め立てが進行して遷座を重ね、寛永元年に鉄砲洲に遷座今日の基礎を築きました。江戸で消費する米、塩、薪炭をはじめ、たいていの物資はことごとくこの鉄砲洲の港へ入って来たために、大江戸の海の玄関に位置するこの鐵砲洲稲荷神社は、船員たちの海上守護の神としても崇敬されました。

鐵砲洲稲荷神社の向井側に、池波正太郎の『鬼平犯科帳』で知られる長谷川平蔵が5歳から19歳まで過ごした津田七衛門屋敷があったと言われています。

 

◇水天宮(すいてんぐう)
場所 : 東京都中央区日本橋蛎殻町2-4-1
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祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇(あんとくてんのう)、二位の尼(にいのあま)、建礼門院(けんれいもんいん)とされています。

安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)の第一皇子として治承2年(1178)に生まれ、生後1ヵ月で皇太子となり、治承4年(1180)に2歳にして第81代天皇に即位されましたが、祖父・平清盛の死後、源氏に追われて各地を転々とし、源氏の軍船に追いつめられ、平清盛夫人で祖母の二位の尼(時子)に抱かれ、壇ノ浦海に入水し8歳と歴代最年少で崩御しました。

入水後、菩提を弔うために阿彌陀寺御影堂が建てられ、のちに、久留米水天宮(福岡県久留米市)の祭神とされました。
本来は水難除けの神として、船乗りの守護神でしたが、現在では安産の神として有名です。総本社は福岡県久留米市にあり、700年以上の歴史を持つ由緒ある神社ですが、文久元年(1818)に久留米藩主が江戸藩邸に分霊した水天宮を勧進したことが東京水天宮の始まりとされています。

現在地に遷座されたのは、久留米藩の江戸藩邸が明治政府に接収された明治5年(1872)です。

 

◇新川大神宮(しんかわだいじんぐう)
場所 : 東京都中央区新川1-8
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新川は、亀島川から分岐して隅田川に合流する運河でした。
規模は延長約590m、川幅は約11~約16mでした。
ここは、豪商川村瑞賢が諸国から樽廻船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治3年(1660)に開削したといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。

当時、この一帯は数多くの酒問屋や油問屋が軒を連ね、江戸湾に係留された樽廻船とそれらの蔵が河岸に建ち並ぶ風景は、数多くの挿絵や浮世絵などにも描かれました。

文政期には関西からの下り酒問屋の7割が新川にあり、付近の霊岸島には油仲間寄合所が設けられ、関西からの下り油の売買所と定められたとされています。

今でもこの付近には酒造、醸造、食料油などの関係企業が拠点を構えており、今でも地元では酒問屋の守神として新川大神宮が崇敬されています。

(2007/4/23)